くわしい講師のプロフィール

彩りの墨彩画家 高津陽子(こうづようこ)です。

 従来の水墨画に色をのせた墨彩画ではなく

墨と顔彩を混ぜて描く新しいタイプの

墨彩画「彩りの墨彩画」を考案 

 

絵画教室、原画販売、オーダーメイド作品の制作

などを中心に活躍中 

 

私の画風がどんなふうに作られたかを

私の生い立ちをふりかえりながら

お話ししていきましょう 

 

幼少期の私 一級河川のそばの田園地帯で魚取りの日々 

 

私は岡山県北の中山間地に生まれ 

一級河川のすぐ近くで田んぼの中にポツポツと

家があるような田園地帯で育ちました。

 

 

父親や隣に住んでいた叔父は

毎年季節になると鑑札をとって

鮎の友釣りをし、シーズン後半には

投網をしていました。

その他にもウナギやフナやコイや

ニナ貝や川エビも食卓に日常的に

上がっていました。

 

大人になってから同級生と話す機会があり

当時私の家だけがそんな食生活を

していたような気がしていましたが、

同級生の家も同じようなもので

今から30~40年前の岡山県北の食生活は

自然からの恩恵を受けたものたちで

溢れていたのが普通だったんだと

気づきました。

 

 小学生の頃は学校から帰ると

ランドセルを玄関に置いたまま

もちろん宿題もしないうちに

家の隣にある農業用水路で

魚釣りをするのが日課でした。

 釣竿は黒竹(クロチク)という細い竹で

その先端にテグスを付けてもらい

小さな針を付け

炊飯ジャーの中にある米粒を餌に

オイカワなどの小魚を釣っていました 

子供には楽しい、ちょうどいい遊びでした。

水田地帯では毎年田植え前と稲刈りの後に

井手さらいというのがありました。

 井出というのは農業用水路のことです。

田植え前には井出に大量に生えている

梅花藻を刈って水の流れをよくします。

 稲刈り後には川の掃除をして

農業用水路に流れる水の量を減らします。

このどちらの時も川の底に溜まっている

土を上げる作業があります。

 この時に近所の子供達は

井手さらいの作業をする大人たちの

後をついて周り

土と一緒に揚げられたドジョウを拾います。

 

秋の井田さらいの後

水量の少なくなった川に魚を取りに行きます。

 当時の護岸はコンクリートではなく

石を積んでいました。 

この石の隙間に手を入れて魚をとります。

 隙間には必ず魚がいましたし、

魚以外のものはたまにカエルが出てくるぐらいで

手を突っ込むのが怖いということはなかったです。

こんな風に幼少期の私は季節を通して

川で遊んでいました。 

 

生け花との出会い クラブ活動から師範資格取得まで

母親は今で言うガーデニングが好きで

春と秋には種苗会社から

球根や苗や種を取り寄せて

毎年新しい品種の植物を庭に植えていました 。

 

田舎ですからもちろん畑もあり

そこで採れた野菜は食卓に上っていました。

 苗を植えたり収穫をしたりは、

もちろん日常的な作業でした。

「ちょっと畑からネギ取ってきて !」は

母が私に言っていた言葉です。

ネギはいつも取り立てのものを

食べていました。 

 

 子供の頃は川で遊ぶだけでなく

山にもよく行きました。

 山に行くのは山菜採りのためです。

 ワラビやゼンマイ、ウドを採取していました。

 山菜採りではないですが、春になると

よもぎをとってよもぎ餅を作っていました。

つくしも毎年食卓に上がっていました。 

 

母は山菜採りに行った時に

この花は 〇〇〇〇という花よ、とか

この花は珍しい種類なのよ、とか

教えてくれていました。 

 

生け花との出会いは中学生の時の

クラブ活動です。

通常のクラブ活動に入りながら

月に一回だけ生け花を生ける

生け花クラブがありました。

 ここで小原流の生け花を習い始めます。

 植物に触っているだけで楽しかったので

将来就職したら自力で生け花教室に

通うと、この時に決めました。

 学生時代の話は割愛しますが

就職してひょんなことから

小原流の教室に通えることになりました。

生け花はとても楽しかったので

1回は稽古で、1回は花屋さんで自分で

取り合わせをし、1回は野の花を

採取し、一週間の間に3回花をいける

ような生活をしていました。

 

その後結婚をし、さらに数年後

岡山に帰ってきて生け花の師匠との

出会いがありました。

 師匠とは誕生日が同じ日で

ちょうど48歳違っていたので

まるで自分の祖母と同じぐらいの

歳で、それはそれは厳しい師匠でした。

 文化連盟の会長や茶道部の部長をしていて

その打ち合わせに出かける時は

きちっと着物を着て

出かけるような

地元の市役所の文化課の方の間でも評判で

知らない人はいない、というような

人でした。

私はこの方に

生け花は総合芸術である

芸術は 人に感動を与えるものだ

という価値観や

日本人の美意識、日本の風土、

自然の美しさなどを徹底的に

教えてもらいました。

生け花を習っている時にはよくわからなかった

ことも絵を描き始めると

生け花の師匠が言ってたことは

これだったんだなと気付かされることが

多くありました。

 

生け花の師匠は茶道の師範資格も

持っていらっしゃいました。

 前日にお茶のお稽古があったので

私が生け花を習いに行くと

床の間には季節の掛け軸と

茶花が素敵に準備されていました。

生け花を習いに行っているのですが

この床の間のしつらえを見るのが

楽しみでもありました。

私の画風の根源的なものは

この時の経験で培われました。 

 

墨彩画との出会いは片岡鶴太郎画伯の個展 

生け花をずっとしていましたが

絵を描くということも諦めきれないでいました。

 美大に行くのは親の反対もありできませんでした。

「絵が描きたい」 がずっと口癖でした。

 

 絵を教室に習いに行くと言う発想すら

なかったのでどうやって絵を描いていいのか

よく分からないでいました。

そんな時岡山で毎年お正月に開催される

 院展を見て、日本画というものがあると

初めて知りました。

色合いもとても素敵で大きな画面に

描かれている作品は衝撃的でした。

調べてみると岩絵の具という

絵の具で描いてあることが分かりましたが

とても高価で、膠で溶いて

接着できる状態にするところからしなければ

いけないので、まだ子供が小さかった当時は

日本画をするという選択にはなりませんでした。

 

 洋画の色合いはどうも好きじゃないなぁ

日本画は手に負えないなぁ

水墨画はカラフルじゃないなぁ

と思っているところに

運命的な出会いがありました。

 

どこのデパートでだったかは忘れましたが

片岡鶴太郎さんの画業10周年記念の個展を

偶然に見て

私が探していた絵のジャンルはこれだ!

墨彩画が描きたい!

と思いました。

 

不思議なことに当時自治体の

書道教室に通っていた私にその時の仲間が

「そんなに絵が好きなら、習いににおいでよ 」と

誘ってくれた教室が

墨彩画の教室でした。

 墨彩画を習いたいと思ってから

すぐに

地元で墨彩画を習えることになりました。 

本当に不思議なそして運命的な出会いでした。

 

岡山県美術展に挑戦

墨彩画を習い始めてとても楽しかったです。

 でも子育てと両立していたので

ゆっくりゆっくり進んでいく感じでした。

 同じ先生に習っている生徒さんで

毎年一回社中展をしてそれが発表の場でした。

当時から志は高かったので

いつか県展に挑戦しようと思っていました。

 習い始めて5年ほど経ったとき、

息子が中学を卒業し高等教育機関の

合格が決まった時に

ほっとしたし、ちょっと気が抜けたように

なりました。

 このままでは体調崩すんじゃないかと

思って、新しいことにチャレンジしたいと思いました。

県展に出すのは今だ!

 

初めて出した県展の絵は

見事入選しました。

初挑戦で初入選。

なかなかの快挙だと思うのですが

当時の私は単なる通過点のようにしか

思えなくて、先生には

もっと喜びなさい!と言われました。 

それ以来県展は毎年出品していますが

入選と落選を繰り返しました。

 

 今はまだ子育て中だし

それが終わってからでも自分のことを

やっても遅くない。

だからそのために今絵を習っているんだ

と思っていましたが

ぐずぐずと自分の本当の気持ちに

蓋をしてきたので

それに気付かせるような出来事が起きてしまいました。

 

突然の癌告知

ぐずぐずと自分の本当の気持ちに

蓋をしてきたので

それに気付かせるような出来事とは…

 

自治体の乳がん検診を受けて

精密検査をしなさいという通知が

来てしまいました。

 多分大丈夫だから、大丈夫なことを

確認するために大きな病院で

みてもらっておいでと

主人に言われて乳腺外来のある

病院に行ってきました。

その日のうちにマンモグラフィーで

これは典型的な乳がんの形ですね、と

お医者様に言われました。

手術までの2ヶ月足らずのことは

あまり記憶にありません。

 

 指を切っても切り傷が直って何ともないように

ガンも手術をしてとってしまえば

後は元通りと思っていましたが

全然違っていました。

 腕は上がらないし

手術をしていない利き手側の手も

滑らかに動かない

薬の副作用はきつくて

集中力もなく

机の前に座っていることさえ

とてもしんどかったです。

2月末に手術をして、しばらくしてから

県展に出品するための桜の絵を

桜の咲く季節に描き始めました。

 思ったように手は動いて

くれませんでしたが、

パートも休んでいて時間があったので 

ひたすら絵を描いていました。

 この絵さえかければすべてはうまくいく!

私は大丈夫!

こんなに辛くても頑張っているんだから

県展にも通るし

一つぐらいはいいことがあるかも

と思っていました。

 でもその年の県展は落選でした。

ショックと言うか…

何て言ったらいいんだろう…

ああ、神様は私を応援しては

くれないんだな

と思いました。 

 

それから数年にわたり描けないこととの

戦いの日々が続きます。

 しかし癌告知という経験を

したことで

人はいつ死ぬか自分では決められないので

やりたいことは今やる!

というスタンスに変わりました。 

 

 

 

仁淀川との出会い 仁淀ブルーに魅せられて 

転機になったのは娘の一言でした。

当時高知の大学に行っていた娘が

帰省した時にこんなことを尋ねて来ました。

 

母さん!仁淀川って知ってる ?

水質の教授が四万十川より仁淀川の方が

水質がいいから、君たちは一度

仁淀川を見なさい って言うの。」

 

 仁淀川?

聞いたことない!!

 

調べてみると高知在住の

ネイチャーカメラマン高橋宣之氏が

紹介した写真がネットに出ていたり

 NHK スペシャルでも特集されたり

していました。

仁淀ブルーと呼ばれる青い川の色が

とても綺麗な川です。 

 

季節は秋。

仁淀ブルーが文字通りブルーになる季節に

主人と娘と3人で仁淀川を見に行くことに

しました。

たくさんの観光スポットがありますが

最初に行くのは中津渓谷にしました。

 

初めて見た川の色は

本当に青かったです。

仁淀川の青の正体は苔ですが

苔の生育期である春夏はグリーンに

苔の生育期ではない秋冬はブルーに

なるそうです。

私たちが行ったのは秋だったので

本当に本当に青くて

初めて見た時は きれ~い!!と

歓声を上げるほどの美しさでした。

 

これを絵に描きたい!

 

心が奮い立つような思いで絵を描きました。

 

1年おきに入選と落選を繰り返して

いた私ですが

仁淀川を描いた第一作目は

県展の奨励賞を頂きました。

 

あ~、これを描けばいいんだな

と言われている気がしました。

 

翌年描いた 「仁淀ブルー -渓ー」

という作品は県展で

岡山市長賞をいただきました。

初めての入賞です。 

 

高津さんといえば川の絵を描く人ね

と言われるほど

この作品は地元の方に私を知っていただく

きっかけとなりました。 

 

抽象画に憧れて でも風景画なんだけどなあ

ギャラリーや展示会場に足を運んで

たくさんの絵を見ると

だんだん自分の好きな絵、そうではない絵が

わかってきます

 

私は細密に描かれた具象画よりも

抽象的に描かれた絵の方が好きです。

 

 でもそれは西洋の抽象画ではなく

江戸時代尾形光琳が描いた

光琳菊と呼ばれるような

シンプルで図案化された絵です。

 

そんな絵をどうやったら描けるんだろうと

試行錯誤し

抽象画家の方を見つけては

どうやって描いていますか?と

尋ねました。

絵を描いては抽象画家の方の批評を聞き

また次の作品を描くの繰り返しでした。

 自分の好きな抽象画が描けないと

絵を描き始めた意味がないと

すら思っていました。

 もちろんそんなふうに思っていたので

とても苦しかったです。

しかし2年程の間になんとか抽象画だけでの

個展をするまでになりました。

来場者も前回より少なくなり

家族からは批判だけが出ました。

 しかし

自分が描きたいと思っている絵を

描けたことは

自分になれたというような感覚でした。

もう具象を描こうが抽象を描こうが

私の描く絵は私そのものだ

と思えるようになり、吹っ切れました。 

 

現在の活動

 

今は植物や瀬戸内海、川、水を中心に

具象や抽象の枠にとらわれることなく

作品を発表しています。

また、色彩ゆたかな「彩りの墨彩画」の

普及に力をいれています。